「water mirror intersect」
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haku kyoto / 京都
「water mirror intercept」
近年、< 目に見えないもの > の存在感は、強さを増している。人類の歴史を想い返すと、< 目に見えないもの > への距離感は、近づいたり遠ざかったり、往き来を繰り返しているのではないだろうか。
人間は長い歴史の中で、見えないものを見えるようにしてきた。その営みには、見えないことを克服したいという渇望や、逆に、見えているもののみで世界は完結しているわけではないという安堵が含まれている。肉眼では、見えないけれど、確かに働きとして在るものに気づけた時に、世界の広がりに安堵する。あるいは、見えるのに触れない、分かっているのに避けられない隔たり。つまり感知と行動に落差が生じる時に人間には感情 ( 不安 - 安堵 ) が生じるのではないか。例えばそれは、津波などの自然災害であったり、人間を超えたものとの対峙の中にある畏怖や崇高も、その一種である。
本展の作品群は、2021年から制作をはじめた water mirrorシリーズによって構成している。描かれているものに具体的な’対象’はない。ただ虚像を映しだす媒体として提示しているわけでもない。それは、水面に反映する世界、私たちを包囲している < みえるもの - みえないもの > を含めた周囲に拡がる環境光景を反照させている。単に水面に映った表面を描いているのではない。水が反映する世界、水そのものが物質であり、物理的に深さを持ち合わせている。そこには、水に内包されるもの-魚を繁殖させ、微生物たちが住まう水、そして、木々が映り込むことによって像を生み出す水。これらの両義的に存在するものを重ね合わせてみた時に、陸や木々に棲まう魚の姿を、想像することもできるのではないか。私たちが、自覚的に見ようとしなければ見えない世界への解放、Water mirror シリーズの作品は、私たちが普段、視覚的に情報としてみている気になっていることへの問い立てでもある。
五感を超えた感覚や気配で危機を回避する力のように、< 見えないもの > への存在に対する眼差しや、 関係を結んでいくことは、私たちに真の現実性を与えるのではないだろうか。見るということが情報化されつつある中で、見えないけれど、確かに存在するものへの意識は、根源的な想像力に焦点をもたらすのではないだろうか。
アクリル絵の具を粒子のような状態として扱い、積層する方法によって目指している色彩やテクスチャーの問題について。それは印象派の色彩論における視覚混合技法や、近代的な映像機器でみられるような光の三原色による色彩ではない。自然の現象によって自ずと生じる色彩やテクスチャー、例えば岩肌の長い時間の経過によって構築される複雑で微細な色彩や、感触を伴う色彩がある。これを、自然現象としてではなく、つくり出すことへと展開したい。私はそれを「skin -textured colour( 肌理の色彩 ) 」と呼んでいる。この作品の中の一点を屋外に持っていった時に、作品の表面の上を虫が旋回していた。まるで水面の上を浮遊するかのように、その作品の円内を離れようとしなかった。それは、入斜方向からガラスへの反射や屈折によるものかもしれない。水面と勘違いをしてその場にと留まったのだろうか。しかし、ここで自分のあげた想像以上のことが、作用しているとも考えられる。このように「skin - textured colour( 肌理の色彩 )」は、人間を含めた全ての生物のための色彩としてはたらくよう試みる、新しい色彩論である。
高山 夏希