「偶然の地層の上に」
howra淺井裕介+高山夏希

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2021年5月14日(金)~ 2021年6月6日(日)
EUKARYOTE / 東京


「偶然の地層の上で」

 

屋内で過ごすことが課せられた生活の中では、目の追いかける距離が手の届くほどの物理的な距離でしかないような狭さ / 近さを感じて、焦点を遠くに飛ばすことが出来ないでいる。眺望する人間の本能的衝動と相反して、近代的な情報のコミットの仕方から映し出されるフラットな世界は、私たちの見るという行為を貧しいものにさせているのではないだろうか。網膜が手前でピントを合わせるような習慣になってしまうような体験としてある。

 

淺井裕介と高山夏希は共通して平面を主軸として制作しながらも、いわゆる絵画とは一線異なる独自の物質感を持つ。淺井は土をはじめとして近年では鹿の血などの自然物を用いて制作する。自然の中で生まれる色に反応しながら、自然物である土の物質的な素材のなかで、土から植物へ、植物から生き物へと変容するようなメタモルフォーゼの世界観が現れている。高山は、様々な人間や動物、その周囲の環境 - 光景を含めて一体化する世界像として捉えるよう、複数の色同士が絡まりあった絵の具を盛り上げ、積層して削るなど、彫刻的な手法を用いイマージュかつ実体へと混成するように制作をする。

 

淺井と高山には、それぞれ違いながらも共通項として、物質の直接的なイマージュが存在しているのだ。たとえそれがほんのわずかな凸凹だったとしても通常の絵の具の厚みとの違いを両者は重要視している。それは視覚と力動的な歓び、肉体を通して運動する事と内的イメージを同時に織り成し、私たちの周囲にある物質の目に見えないエレメント(水の蒸発、土の中の微生物、空気の密度)への変化に反応しながら生成される。感覚を開けば知覚され、閉ざせば知覚されない、幾多のイマージュ。その知覚に瞬時に反応し、手を動かす。それは原初的に人間が、水は水であること、血は血であることを説明されなくとも知っていることのように。犬が磁波を感じ取る、飼い主に不幸がある手紙を察知することがあるという謎めいた能力や、人間が重力を感じずには生きられないという言説があるように、人の理解の範疇にない知覚が私たちの身の回りに様々に営まれている。物質的なイマージュとは、物理的現実から喚起される想像力に支えられており、自然を介して人々のなかに住み着いている。この物質を媒介にした想像力が、淺井と高山の共作を成立させる源となっている。

 

共作を進めていく中で互いに作品を相手に託す。種を蒔くようにして一人が色を置き、モチーフを描き、その共有された物 質とイマージュの萌芽を媒介に、交互に連続的に変貌を遂げている。その画が、向かう場所や、それが遂げるであろう変身の予期、期待、そして裏切りの連鎖がある。そこには偶然の中に含まれる予期しない出来事を楽しむという面白さがある。何もない裸 地から時間の経過とともに森林が形成する極相林のように。遷移的に新しい巨大なものが生成される。想定通りの常識から外 れた時に新たな偶然のイマージュが誕生する。それは新しさを前にして、躍動し始める。その表象は淺井でも高山でもないもう一人の作家の作品として見えてくることを目指している。極端に言えば、第三者の何者かになろうとしている。それは、この制作のきっかけにもなった〈パルナソスの池(※1)〉とも異なるメタモルフォーゼ、別者への変貌へと意識を向けている。

 

〈howra〉というユニット名も〈パルナソスの池〉から派生して名前をつけている。パルナソスの池は、ギリシャに存在する、パルナッソス山(Parnassos)に由来している。そこにはパルナッソスが長だった都市があり、土砂降りの雨による洪水に見舞われた。市民たちは狼たちの遠吠えで危機を察し、山の斜面に避難し、難を逃れた。生き残った者たちで新しい町を建設し、リュコーレイアと名付けた。ギリシア語で「狼の遠吠え」を意味する。高山のアトリエに淺井が訪れると、土砂降りの雨が続いた ことから、神話の物語とイメージを重ね、” howring in the rain” の略から名前をつけた。そのことから、雨や水は howra の制作 の重要なファクターとなった。

 

淺井は、高山に作品を渡す時、「不安を感じない」と言った。遠慮も容赦もなく、作品の心臓部を、一瞬にして壊そうとすることも可能である。しかし、単に調和することが正解でもない。‘こだわり ‘を脱ぐい、「なんだ、、これでいいんだ」という瞬間に立ち会うことで、自分自身を捨てるのではなく、むしろ自己の広がりとして第三の作家を立ち上げることが出来るのではないか。この展覧会はそうした試みの中で派生した作品群の一部をお見せする一回目の展覧会である。

 

「そして。ぼくはぼくの鏡の中に降りる
死者がその開かれた墓に降りてゆくように」

 

ポールエリュアールの詩である。
宮川淳はその著書『鏡・空間・イマージュ』の中で、鏡を主題とすることについて「想像力が鏡の表面のためだけではない、その反映に抗いがたく鏡の底を夢見させるのだ。映り込ませる主体となるものではなく、平面である鏡がなお深みを持つ一つの空間であることが、鏡の想像力の主題となっている」※2と語っている。この鏡への眼差しのように、私たちの作品を見透すことはできないだろうか。作品に反映する思考の痕跡、自動筆記的に繰り広げられる物理的イマージュの残像。鑑賞者は、淺井と高山が共作した画面の中の物質現象とともに表れているイマージュ、その表面だけではなく、潜在している萌芽を見ることで、イマージュの核心が見えてくるのではないだろうか。

 

物質の上に立つイマージュは、私たちが今、困窮している問題に、少しの居場所や笑いをもたらしてくれるのではないだろ うか。そして物質的なイマージュへの想像力は、種を植え芽吹くことを期待するかのように、視覚を通して私が今ここにいるという実感を湧き立たせる。見るということが情報化されつつある中で、この偶然の地層の上に降り立つイマージュは、根源的な想像力に焦点をもたらすのではないだろうか。

 

高山 夏希

 

※1 「パルナソスの池」豊島区を中心に淺井裕介、高山夏希、松井えり菜、村山悟郎をメンバーとして活動しているアーティストコレクティブ
※2宮川淳の著書『鏡・空間・イマージュ』から一部抜粋(下線部)


FLOOR1 展示風景






FLOOR2 展示風景




FLOOR3 展示風景「英雄の馬」H1445 × W1445× D25 mm








「毎日の神話」H530 × W280 × D250 mm


「雨積」 H530 × W280 × D250 mm


「星綱 」H147 × W182 ×D25 mm


「amaoi」H60 × W27 × D57 mm


「始まりの森」 H735 × W905 mm× D30 mm


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