「HUMANITY」
Mitobe Nanae×Natsuki Takayama

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2021年6月4日(金)~ 2021年6月25日(日)
Rikka Gallery 麻布台 / 東京


人間が地球と共生する為には、環境倫理的な部分だけでなく、文化、経済、思想、表現などを含めた人間の在り方を見直す必要があるのではないでしょうか?

 

その第一歩として、”HUMANITY”展では、アート制作の中で人間そのものを再度見直し、作品として昇華させる2名の現代アーティストにスポットライトを当てます。

 

水戸部七絵は、匿名の顔や、欧米の70年代から現代に至るまでのスターと呼ばれる著名人をモチーフに絵を描き続けています。今では、マスクにより没個性となった人間の“顔”ですが、本来私たちは夫々に個性があり、画一的な存在ではありません。彼女の作品は、人が“顔”を通じて、再び社会性を取り戻せるのではないか、というテーマを喚起させます。また、絵具を厚く塗り込む作風は、平面アートの概念を超越した立体的な表現を可能にさせます。

 

高山夏希は、アートを通して人と世界との距離を再定義することによって、社会における人の存在意義を模索しています。彼女の絵筆を使わず、注射器を用いる独特の制作方法が実現する、境界を作らずに空間や対象を線で繋げる表現は、私たち一人一人がこの世界を構成する1つのピースである事、そして地球を共有する人類と自然、動物との繋がりのあり方を再考させます。

 

小柴 綾香


「見えないものが働いている世界」

 

近年、<目に見えないもの>への存在感は、強さを増している。人類の歴史を思い返すと、<目に見えないもの>への距離感は、近づいたり遠ざかったり、往き来を繰り返しているのではないだろうか。

 

人間は長い歴史の中で、見えないものを見えるようにしてきた。そこには、見えないことを克服したいという渇望や、見えているもののみで完結しているわけではない世界への安堵が含まれている。肉眼では、見えないが、確かに働きとして在るものに気づけた時、世界の広がりに安堵する。見えるのに触れない、分かっているのに避けられない、つまり感知と行動に落差が生じる時に人間には感情(不安-安堵)が生じるのだ。それは、津波などの自然災害であったり、人間を超えたものとの対峙の中にある畏怖や崇高も、その一種である。しかし、やがて見えていないのにもかかわらず、見えているような気になってしまう。

 

私たち人間が生まれる遥か以前から、宇宙や地球は存在して、今もなお、私たちは、< みえるもの-みえないもの >を含めた環境に取り囲まれている。個としての生物のあり方にもそういった傾向がある。生物は人間の生命が自己複製を行うシステム、構造には二重螺旋があり、ネカとポジとして遺伝子構造が組み合わさり、一つの生物となる。見えない世界の働きが交差している。そうした〈見えるものー見えないもの〉、人間ではない他なる存在との連関を自覚することは、人間に制御しきれない問題を捉え直す糸口となるのではないだろうか。

 

いつしか月が綺麗だと感じられなくなり、それらしい符牒を人生の中に何度も遭遇させることで、感覚の強度もなく自らの存在を承認することになる。見る-感覚するという行為を、意味を獲得することと直結して考えるのではなく、意味以前の無心の世界を実感する術として、少しでも感覚を開くことはできないだろうか。

 

風の匂いで天候の変化を察知し、五感を超えた感覚や気配で危機を回避する力のように、<見えないもの>への存在に対する眼差しや、関係を結んでいくことは、私たちに真の現実性を与えるのではないだろうか。

 

普段通りの制作をしていても、日によっては、絵の具が意思を持って抵抗しているように感じられるときがある。その抵抗と向き合う度に、ある夜光虫の海を想い出す。打ち寄せる波、蒼白い光は手ですくっては消え、見放されたかのようにまたすくう。遠い闇の中に、夜の海面が蒼く明滅している。空気の冷たい風と暖かい海の間で、私は地球の一部へと引き戻されたようだった。制作のなかに働いているのも、自分自身の力だけではない。今日しか出来上がらなかったであろう表情をもつこともある。絵の具の見えざるきまぐれを想像しなから、触る。私と物質のあいだにある確かに感じられる見えないもの。人間、生物を含めた全ての物体が原子の集合体であるように、細胞や分子レベルから見た小さな小さな世界。これを想像しながら、絵具によって一粒一粒を表現している。その絵具の中では、固まる前に、複数色の細かい粒子と粒子が流動して絡まりあっている。本作品群は、世界の一部としての自分自身の存在を自覚することを目指して、物質性・純粋性・非人間性を手掛かりにして制作している。

 

高山夏希





 

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